光に溺れ闇と踊れ

日々の怒りや嘆きを文章にしていきつつ、SHINEな国に抗う、そういうブログ

うな子問題はいかに統治者の思想を炙り出しているか

(昨日の続きです)
他の人のRT経由で回ってきた記事について話そうと思う。あまりにもトンチンカンな文章だった。さて、どこから始めればいいのか。気が重い。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakajimayoshifumi/20160928-00062647/

SNSが発達した現在、発信した情報が問題となり炎上やトラブルを巻き起こす事は珍しくない。一方で明らかにトンチンカンな批判がなされる事も多い。今回の動画に寄せられた批判は妥当なものだったのだろうか。ウェブメディア編集長として、表現という視点から考えてみたい。

今ならまだ引き返せる、辞めておけ!もう、これ以上しゃべるな!

いや、そりゃあBBCに「人種差別的だ」と批判された野党党首へのウソに基づく中傷など、人工的に発生した「偽の問題」はあるよ?でも、これを喩えるなら「奴隷主が奴隷に対して行った行為に『確かに、虐待があったかもしれない。しかし、一方で過剰な反応も多い。我々は良い待遇を与えてやっているし、批判は果たして妥当なものか?』と言うのに近いよね。支配している側の論理。

動画の設定は平凡ではないし、批判を黙らせようとする手法は行政と全く同じだ

美少女が男性と同居をする、一緒に生活をする、といった荒唐無稽な設定の作品はそれほど珍しくない。

出たよ、すり替え!現実と創作作品を混同しないで!しかも、「少女漫画でも国民的アニメでも同じような設定の作品、あるだろ」と主張は続く。

美少女や美少年に限らず、「非日常的な存在が日常生活に入り込む」といった水準まで設定を抽象化すると、誰もが知る国民的アニメの「ドラえもん」もコレに含まれる。

つまり、「創作作品によくありがちな設定だろ、目くじらを立てるようなことじゃない」、ということらしい。そもそも、トヨタドラえもんCMのヒドさ(あれが未だに放映されているという事実を含め)がどれだけ批判されているのか知らんのか、入浴シーンが海外でカットされていることも知らんのか、とツッコミが追いつかないくらいだ。

それに、「男性なら、美少年なら良かったのか」というのもナンセンスだ。ミラーリングしたところで、「養って」と言わせるものを作るのが論外でしかないから。だって、小さい個体のうちに一気に乱獲して、絶滅危惧種になるまで追い込んでも「他の国が乱獲したのが悪い!」と言うような国なんでしょ?そのような言葉が出てくる、というのは問題を理解するつもりもなく、何も考えていない(考えているならば、児童虐待にあたるような行為を推奨するわけないでしょう。)

そして、その後に続く文章も「批判するお前が悪い」「性的なものは世の中に溢れている、何が悪いのか」という「本当にひどいが、驚くべきものはない」という内容が続く。

結局この動画がこれだけ話題になって公開停止にまで至った理由は、第一に地方自治体という公的機関の作品に水着の女性が登場するという、ちょっとしたミスマッチ・サプライズにある。性的な作品であると強く非難する人もいるようだが、水着の女性は「実はこの人はウナギでした」という最後のネタバラシのインパクトを大きくするための前フリに過ぎない。

コンビニに並ぶ雑誌やインターネット上で水着のグラビアがごく普通に見られる現在、この動画はそこまで批判される程の内容だろうか、と言わざるを得ない。

いや、だから批判をしている。あなたは、何も考えずに電車やコンビニなど公共の場所にあるエロ雑誌、エロを連想させるような広告を「普通の風景」として受け止めている。それでも、見たくないんだよ。「女子大生のSEX!」とか「人妻が女になる!」とか「ロシア発!セーラー服の妖精!」とか「◯学生のロリ!」とか(適当に考えたタイトルだけれども、嫌になるほど溢れているんだよ…)。そうでなくても、裸体や女体が嫌になるほどに溢れている。それから逃げられないということ。

「(女は)そうであれ」というメッセージが常に送り続けられていること。

それは批判されないといけないし、国がそうだから批判しているし、動画も批判している。あなたの文章もだ。

※「水着の女性が出ているから批判しているんだろ、批判者は何でもいちゃもんをつけてくるのか?」という主張もあった。何を言っているのか。水着シーンを出すな、映像で水着を流すな、と言う人は(作者が想定している批判者を除いて)存在しない。案の定、差別・殺人扇動番組で男性コメンテーターがこの話題に触れていたのだが、「スカートを履くなというのか」という全く的外れなことを言っていた。誰もそんなことは言っていねえだろうが!!!!!!言って!!!!いねえ!!!!だろうが!!!!姑息なすり替えやめろ!

女体を広告でここまで性的に使ってきていることが批判されている。広告は、誰もが見るものだからだ。そして、これが批判されたのは公共な組織による広告で、身体が、人間が蹂躙されまくっているからだ。

※※あれがポルノ的ではない、ということにいたっては一体何が言いたいのだろうか?「男性が美少女を養いたい」ことに対し「怖いか不快」と書くのならば、何故批判者の反応をここまで小馬鹿にして、ここまで間違ったことが書けるのだろうか?

何故この文章は間違っているのか

もはや、この記事で合っているのアップロードされた日付と時間、「うなぎを食べようと思える内容にもなっていない。」くらいしかないけれども、このエントリには行政側の視点しか無い。一貫して「そう反応するお前のことが理解できない」「そう解釈するのはおかしい」「そこまで批判されるような内容なのか」というスタンスを取っている。だから、間違っている。それを間違えると全て間違える。

さらに、解決案として「完成度の高いものを出せば文句を言われなかった」と提示してくる。しかしながら、それは対応としても最悪なものだし、差別に対する反省も一切無い。

結局、この動画が問題となった理由は水着の女性が出ているかいないかといった点には無く、水着の女性をわざわざ出演させたことの必然性、自然な流れが描かれていないという部分で作品としての質が低かったからとしか言いようがない。圧倒的に質の高い内容であれば多少の批判・非難は跳ね返すことは出来たはずだ。

(中略)

出演している女性タレントも志布志市の自然を描いた映像も非常に綺麗で、あとほんの少しの配慮と作り込みがなされればこの動画は名作と言われる水準になっていた可能性もあったと思う。相当なコストがかかっているであろうことも考えると、何とももったいないとしか言いようがない。

どうだろうか?全て「作る側」の理論でしかないし、そこに女性は不在だ。これだけははっきり言っておくが、「水着の女性をわざわざ出演させたことの必然性、自然な流れがなかったから」と批判していた人は一人もいない。作者以外に。質が高い低い、という話も非常にありがちで安易な、すり替えにしかすぎない。金をかけようとかけまいと、あのような表現を送り出してしまった時点で、アウトだ。No means No、だ。

コストがかかって、さらには公共の場で公開するということは世界に開かれること。それゆえ、発するメッセージがどう受け取られるか?何を伝えたいのか?ということはきちんと注視されチェックされるべきだ。でも、そうは言わず、「くだらないこと(この場合は批判を受けたこと)で非公開にしたのがもったいない!少数派の圧力で封じ込められる前例を作ってしまった!」という、徹底的に、加害の側、決定権を持つ側の原理だった。おそらく、「(女性職員にも話を聞いたけれど)総合的な判断から公開を決めました」発言を聞いても、同じことを言っていただろう。

「質が高ければ批判されなかった」というのは「巧妙にやればいい」というものと地続きだ。「殺せ、と言うはのいけない。だが、法律を利用し合法的に殺すのならば応援する」「自分だったらもっと上手くやれる」という殺す側の思想につながっていく。だから、ものすごい危ういのだ。

終わりに

「批判をしてくるお前が悪い」「もっと上手くやれば良かった」という反応は蜥蜴の尻尾切りでしかない。それどころか、市の担当者の発言と今回のこの記事の言っていることが、全く同じように思える。いや、根本的に同じなのだろう、と思う。

この記事そのものは、あまり反応はなかった(他の記事に比べるとアクセス数は少なかった)のだが、作者はよほど持論に自信を持っているのか、(やはり)批判者を小馬鹿にした発言をしていた。

そもそも、「うな子動画が批判されベッキーの(日経に掲載された宝島社広告の)セミヌードが受け入れられるのは必要性があったからだ!」とぬかしていたけれども、いや、こっちだって批判しているよ。人手とリソース不足だから出来ないだけであってさ!あれも「(世間が想定する)懺悔のために脱がせて、結局女体を使っている」から、なんてことない、女性差別でしかないよ。あれも「より巧妙にやれば批判はされない」ということの強化にしかならない。

最後に、この記事に対するFacebookの投稿をもって締めたいと思う。

『ウナギだからエロくないんですよ、エロく見えましたかーがははは」みたいな言い訳は通用しないし、筆者が抽象化してトンチンカンという批判が、自治体の広報動画であるとトンチンカンではなくなってしまう。セクハラまがいの動画を自治体が垂れ流すべきではない。自治体はセクハラをなくすための活動をすべき組織なのだから。』